小説に触れる機会がある方はよく、「純文学」と「大衆文学」という分類を目にする機会があるかと思います。
ただ、それらの違いって何?という方は少なくないのではないでしょうか。私も正直よくわかっていませんでした。分類するからには何か読者側にもそれを知っておく意味を見出せるのではと思い、自分なりに調べて考察してみました。
※あくまで自分調べで正確な情報では無い可能性があります。これが正しいということでは全くなく、あくまで私なりの考察としてお読みください。
「純文学」…難しそう?
「大衆文学」…みんなが読みやすいもの?
という感じでしょうか…
「純文学」と「大衆文学」の定義
まずはよく目にする定義を見ていきましょう。
- 純文学とは
芸術性を目的とした文学 - 大衆文学とは
大衆を楽しませること(エンタメ)を目的とした文学
おそらく定義としては上記くらいの曖昧さを含んでいます。例えば、それぞれ代表的な文学賞として、純文学を扱う芥川賞、大衆文学を扱う直木賞がありますが、それぞれの受賞作にはどちらの分類にも当てはまる面が少なからずあるように思います。
考察
私の解釈としては、作家さんが作品を作り上げる中で向いている方向が異なるものと捉えました。純文学は内(作家側)向きで作家自身が自分と向き合いそれを表現したもの、大衆文学は外(読者側)向きで読者の興味関心に向けて表現したものというイメージです。
読者側の意識として、特に純文学に分類されるものであるということを知って読むのとそうでないのとで受け取り方が変わるように私は思います。純文学に分類される作品を読むのは、例えば美術館で美術品を鑑賞することと似ているのかもしれません。その世界に精通していない一般人からすると、それを見たときにどう解釈していいのかわからない面が少なからずあります。純文学にはそういう性質が含まれているので、「難しそう…?」というイメージに繋がるものと思います。ただ純文学はそれでよいのです。そもそも読者にわかりやすいジャンルではないのです。だからこそ読者側の受け取り方に委ねられる奥深さが純文学にはあるのだと考えます。
一方、大衆文学は読者側としては真正面から受け止めればいいものであって、何となくのイメージであった「みんなが読みやすいもの」はそう遠くない表現なのかもしれません。物語のテーマやストーリー、登場人物のキャラクター、それらは読者のために用意されたものであって、読者が受け取りやすいようになっているんですね。一般的に売れるのは大衆文学ですが、それは特性上当たり前ということです。
ただ、やはりあくまでそういう定義のもとにどちら寄りか?というくらいで、純文学に分類されるからと言ってすべてが大衆文学に比べてエンタメ性に欠けるかというとそんなことはなく、逆もしかりです。作家さんがその作品をどう表現したかったかという一つの要素ではあると思うので、それを知ったうえで小説を読むことで読者側として懐が深くなり楽しみ方が広がるのではないでしょうか。
私もどう捉えればいいのだろうとそれ以上踏み込まずに過ぎてしまったような作品が過去にありますが、そもそもその作品はそういうものであってどう捉えるのも自分次第であり、自分がどう思ったかを考えることに意味があるのだと思いました。それは純文学、大衆文学に関わらずではありますが。
まとめ
定義から見ると何となくのイメージである「純文学」は難しそう、「大衆文学」はみんなが読みやすいもの、はあまり間違いではないようです。だからといってすべての作品がはっきりこれらの分類で分けられるかというとそうではない曖昧さが含まれています。ただその作品がどういう作られ方であるかの傾向はわかると思うので、一般読者からすると一応どちらに分類されているかは知りながら読むことで、読んだ後の受け取り方に違いが出るかもしれません。
専門にされている方からすると突っ込みどころが満載かもしれませんが、自分なりの捉え方を考えてみたというところです。ご指摘やご意見があればぜひコメントいただければと思います。
文学賞の話がちらっと出てきましたが、どんな文学賞があってどういう特徴があるのかを調べてみたくなりました。記事にまとめていますので良ければこちらもご覧ください。
ここまでお読みいただきありがとうございました。